ビートルズのデビューのきっかけとなった『Parlophone』(後の所属レコード会社)へ提出したデモ用の「Till There Was You / Hello Little Girl」のレコード《写真・左》が、先ごろ3月22日のオークションで予想価格1~2万ポンドを大きく上回る7万7500ポンド(約1250万円)で落札されました! このレコードは1962年1月1日のデッカ・レコード・オーディション(不合格)のテープを、オックスフォード・ストリートのHMVストアで78回転・10インチ(約25cm)のアナログ・レコードにプレスし直したもので、“この世にただ一枚のレコード”であること、“ビートルズの運命を導いた歴史的意味”を考慮するとこれでも安いのかもしれません。
「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」は1963年11月22日に発表した2作目のイギリス盤公式オリジナル・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ(With the Beatles)』の収録曲です。 ビートルズがオリジナルではなく1957年のブロードウェイ・ミュージカル『Music Man』の劇中歌であり作者はアメリカの作曲家メレディス・ウィルソン(Meredith Willson)、女優Barbara Cookによって劇中で歌われました。
ビートルズがこの曲をレパートリーに入れた1962年(ハンブルグ巡業から)には同ミュージカルが映画化(歌唱はシャーリー・ジョーンズ)されていますが、「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」を歌ったポール・マッカートニー本人は当初『Music Man』の曲とは知らなかったそうです。 ポールが「Till There Was You」を知ったのは、1961年にイギリスで30位を記録したアメリカの歌手ペギー・リーのカバーver.によってでした。
1963年7月18日、「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」のレコーディングは始まり、ジョンもジョージもアコースティック系のギター(ギター・ソロはジョージ)というロック・バンドらしからぬ編成がなされていますが、さらに後日“この曲にドラムスは合わない”と“リンゴはボンゴ!”に回されています。 こうしたソフトなレパートリーはロックのコンサートには変わり種ですが、イギリス王室主催の『ロイヤル・ミュージック・パフォーマンス(The Royal Variety Performance)』のような場にはうってつけであり、後にこの音源は『The Beatles Anthology 1』に収録されました。
楽曲・アレンジ共に素朴な作品ですが、こうしたほのぼのしたテイストは後の自作曲「I'll Follow The Sun」(1964年)や「I will」「Blackbird」(1968年)など、“ポールに欠かすことのできない持ち味の雛型となった曲”といえるでしょう。 冒頭で紹介したデビュー前1962年1月のデッカ・オーディションの音源にはポールのヴォーカルやアレンジにもまだ野暮ったさがあり、この1年で見違えるほど彼らが成長を遂げていったことがよくわかるので聴き比べてみると面白いですよ♪
~Lyrics~
There were birds in the sky 空に、戯れあう鳥たち… But I never saw them winging だけど、その愛らしさもこの目に映らなかった
They tell me in sweet fragrant meadows …そして、教えてくれた Of dawn and dew 朝露に濡れた草原の甘い芳(かぐわ)しさを
【dawn and dew】は[暁露]の方がより正確と思いますが“ぎょうろ”という仰々しい響きは、この曲に似つかわしくないでしょう? 夜の冷えで水蒸気が結露し夜が明け太陽が昇り気温が上がると、露の蒸発と共に大地のにおいを放散する… 日々繰り返される自然の営みですが、その芳香はまさに“露”と共に儚く消えてしまうもの。
“お寝坊さん”は、気づかない?
There was love all around 世界は、こんなにも愛があふれていたのに But I never heard it singing その幸せの歌に、僕は耳を傾けようとしなかったんだね
ジョージ・マーティンの功績について、これまでも「In My Life」や「Being for the Benefit of Mr. Kite!」などで触れてきました。 彼の死に際し、「Strawberry Fields Forever」や「A Day in the Life」などを取り上げるのが妥当といえますが、私は敢えて“出会い”をテーマとすることにしました。 何故なら、ジョンとポールという何十年~百年に一人の天才が同じ街に生まれ、出会い、パートナーとして活動を始めたこと自体“奇跡的”ではあるものの、それだけでは史実にあるような“本当の奇跡”はまず起きなかったと私は思っているからです。 その不可欠な要素こそが“ビートルズ愛”に溢れるマネージャーのブライアン・エプスタインとの出会いであり、“真の5人目のビートル”ジョージ・マーティンとの出会いであったと…。
1962年、デッカ・オーディションの不合格以降もビートルズの売り込みに苦戦を続けていたブライアンは、このオーディションで録音した音源からレコードを制作しレコード会社にデモとして配ることを思いつき、この時オックスフォード・ストリートのHMVでプレスした一枚が冒頭で触れた78回転盤の「Till There Was You / Hello Little Girl」でした。 そして、その際の担当者がビートルズに興味を持ちEMI系列の出版社のマネージャーを紹介してくれたため、そこからEMI傘下『Parlophone』のプロデューサーだったジョージ・マーティンと会う約束を取りつけることができました。
ビートルズには、“ナンでこんな良い曲がシングル・カットされないのだろう?”と思うような作品が数多くあります。 「オール・マイ・ラヴィング」もその一つで、本国イギリスで1963年11月22日リリースの2ndアルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ(With the Beatles)』に収録されましたが、結局イギリス・アメリカ共に発売されることはありませんでした(アルバムからシングル・カットは1曲もない)。