Barry Manilow - I Made It Through The Rain (1980年)~概要~ 「悲しみをこえて」は1980年のバリー・マニロウ7thアルバム
『Barry』 に収録された作品で、シングルとしても
Billboard Hot 100で10位(1981年の年間89位) を記録しました。
「I Made It Through The Rain」の楽曲は元々Gerard KennyとDrey Shepperdが“決して諦めない歌手の苦闘”をテーマとして創作し、そのジェラード・ケニー
自身が1979年のアルバムで発表したものがオリジナルです。
その後この曲を気に入ったバリーが、
「Copacabana」 のジャック・フェルドマンとブルース・サスマンらと共に
“決して諦めない人生の苦闘” の歌詞に書き換え、おなじみのバリーver.となりました。
2005年からバリーはラスベガス・ヒルトン・シアターで長期公演
『Barry Manilow : Music and Passion』 を行いましたが、「I Made It Through The Rain」もそのセットリストの一つとして編成されました。
そのステージ上、この歌の途中で彼は
“この曲を歌うと祖父を思い出す ” と言って演奏を中断し、幼い頃の思い出を語っています。
おじいさんは、バリーの音楽の才能を最初に認めてくれた人であること…
土曜になると、よくブルックリン橋を渡ってマンハッタンに連れて行ってくれたこと…
ある日
(1948年/バリー5歳) 、二人は25セントで声を録音できる所
(録音ブース) を訪れ、そのとき録音した音源が観客の前で再生披露されています。
;“よし、「ハッピー・バースデー」、さぁ歌ってごらん”
;“いやだ、歌いたくない”
;““さぁ歌うんだ!”
;“いやだ、トイレ行かなきゃ…”
ここで音源は停止し、バリーが“…これが10分続くんだ!”と注釈を加え、観客の笑いを誘いました。
結局この日ブースでバリーの歌は録音できませんでしたが、おじいさんも【さる者】で、毎週土曜日になるとバリーを録音ブースへと連れ出し、とうとう“ある土曜、祖父のために何か歌った”そうです!
(この時の二人の“押し問答”の音源は、バリーの1stアルバム『Barry Manilow』に
「Sing It」 として収録されている)
VIDEO VIDEO ~Lyrics~ We dreamers have our ways 夢を心に描いて生きる僕らは Of facing rainy days 雨の日々と向き合う途を併せ持っている 悲しみをやさしく撫でるような前奏のピアノから、この静かな歌い出しにかけてが一番好きです。
私の知る限り、彼のようなやさしさを表現できる歌手は思い当たりません。
バリーというと後半お約束の“絶唱”も見事ですが、私はこういう静かな歌唱が特に好きです。
夢を追うことは“ハイリスク・ハイリターン”であり、【facing rainy days】も人一倍味わうでしょう。
彼らにとってそういう【way】は、“定め”と言ってよいのかもしれません…。
When friends are hard to find 手をさしのべてくれる友だちが見つからず And life seems so unkind 情けない思いをして バリーの音楽の才能を最初に認め、5歳の孫に録音ブースで無理矢理歌わせようとしたおじいさん…
歳月は過ぎ、バリーが歌手となり「哀しみのマンディ」が1位に輝いて初めてカーネギー・ホールで歌うことになりました。
彼がステージに登場するや、おじいさんが真っ先に立ちあがって拍手を送ると観客も総立ちとなり、これがバリーにとって人生初のスタンディング・オベーションとなったそうです。
やがてみんなが座っても、おじいさんは立ったまま…
バリーはそんな彼の姿を見て初ステージの緊張から解放されたと、当時を振り返っています。
I made it through the rain 僕は、雨の日々を乗り越え I kept my world protected 自らの世界を守り抜いた 夢や希望を語るのは、たやすい…。
しかし、苦難の中にあっても信じ抜く事は、容易ではありません。
己を信じて貫く事の大切さ、そしてあなたを信じてくれる人がいる限り、心折れず乗り越えてほしい…
そう、バリーは伝えているのかもしれません。
~西日本豪雨対応…生死を分ける「災害発生から72時間」に優先され、蔑ろにされたもの~ 前回の「黒くぬれ!」本文記事を中断して、急きょ「I Made It Through The Rain」に変更したのは、日毎に被害が拡大する【西日本豪雨】の状況を踏まえ、「悲しみをこえて」の願いを込めてお届けしたいと思ったからでした。
本文記事もその趣旨でお届けするつもりでしたが、
この間の【政府・与党の災害対応】があまりに国民の生命と財産の保護を蔑(ないがし)ろにしたもの であり、この国の危機管理を担う政府・与党がこのような危機管理意識では被災地への必要な救済が滞るばかりか、これから迎える本格的台風シーズンも危ぶまれます。
この危急時に、【膿(うみ)】と付き合っている暇はありません…
彼らの膿を萎えさせるには
、まず“この間何があったか国民が知ること” が先決であり、
【豪雨発生からの災害の状況と政府・国会周辺の動きを時系列 で照会】 してお知らせすることとしました。
【7月5日(木)】 09:30 兵庫県猪名川町で
最初の1人が死亡 。
14:00 気象庁が臨時の記者会見、
「西日本と東日本で記録的な大雨となるおそれあり」 。
22:00までに近畿地方の各地で
11万人に避難指示、47万7000人に避難勧告 (NHK)
同夜、議員宿舎で自民党の若手議員・党幹部が毎月行う懇談会(飲み会)
『赤坂自民亭』が開かれ、安倍首相をはじめ西村康稔官房副長官、竹下亘総務会長、岸田文雄政調会長、小野寺五典防衛相、上川陽子法相ら数十名が出席 。
[首相動静]
昼 自民党群馬県議と会食。
21:38-
私邸 。6日午前0時まで来客なし。
【7月6日(金)】 気象庁は
福岡、佐賀、長崎、岡山、広島、鳥取、兵庫、京都の8府県に対し 『大雨特別警報』 を発表。
少なくとも
11人の行方不明、東広島市で1人が心肺停止、13人の安否不明者 (午後11時、毎日新聞)
近畿や九州、中国など2府21県で
約282万2000人に避難指示、約422万2000人に避難勧告 (午後11時、毎日新聞)
麻原彰晃死刑囚ら元オウム真理教幹部7人の死刑を執行。
『カジノ法案』と『参院定数6増法案』が参院で審議入り 。
[首相動静]
18:49- 公邸。7日午前0時まで来客なし。
『特別警報』 とは
対象とする現象は「東日本大震災」における大津波や「伊勢湾台風」の高潮、「平成23年台風第12号」の大雨等が該当し、
「数十年に一度の、これまでに経験したことのないような、重大な危険が差し迫った異常な状況」 を知らせる特別な警報。
【7月7日(土)】 岐阜県に大雨特別警報 を発表。
愛媛や広島など
8府県で49人が死亡、10府県で52人が行方不明 (読売新聞)
午前11時30分現在、23府県の約360万世帯、
約863万人に避難指示・勧告 (総務省消防庁)
[首相動静]
午前 公邸。朝の来客なし。
10:01 -10:16 官邸にて
災害発生後大雨に関する初めての『関係閣僚会議』 (気象庁の緊急会見から44時間後)。
安倍首相;「事態は極めて深刻な状況。各位にあっては被災者の救命・救助に全力を尽くし、被災者の生活支援、ライフラインの復旧など広域に渡る様々な事態に即座に対応するよう、強いリーダーシップを発揮して対応に当たってください」
11:49-
私邸 。8日午前0時まで来客なし。
【7月8日(日)】 生存率が急激に低下する
「災害発生から72時間」 を迎える日(気象庁の緊急会見から数えて)。
高知県と愛媛県に特別警報 を発表(7時頃?)。
11府県で計
78人が死亡 、9府県で少なくと
も56人が行方不明 (午後6時現在、読売新聞)
避難所に身を寄せた被災者は8日夜の時点で2万3369人 (総務省消防庁)
11府県に出た大雨特別警報は、8日15時頃までに全て解除。
午前8時
気象庁の緊急会見から66時間後 、政府は災害対策基本法に基づく
『非常災害対策本部』 を設置。
(
ここで初めて、防災担当大臣主導による各省タテ割りを超えた
“非常体制” が布かれる)
[首相動静]
09:02 -09:22 官邸にて『非常災害対策本部会議』
安倍首相「多くの方が避難所などで不安の時を過ごしている。先手先手で支援に当たってほしい」
14:29-
私邸 。9日午前0時まで来客なし。
【7月9日(月)】 生存率が急激に低下する
「災害発生から72時間」 を迎える日(最初の特別警報から)
広島、愛媛、岡山3県を中心に12府県で
110人が死亡、行方不明者は62人 (午後4時、読売新聞)
17府県の約174万世帯、
約386万人に避難指示・勧告 (午前5時、総務省消防庁)
豪雨被害を受け、安倍首相の11日からの欧州・中東訪問を中止すると発表
野党6党・会派の代表が“国会は休会とし災害対応に全力で取り組むよう”政府に申し入れたが、参院内閣委員会の柘植芳文委員長(自民党)は『カジノ法案』の国会審議を10日に行うことを職権で決定。 [首相動静]
09:50 -10:11 官邸にて「非常災害対策本部会議」
昼 自民党静岡県議と会食。
13:29 -13:37 中村時広愛媛県知事。
22:01 -22:26 小此木八郎防災担当相。
22:41-
私邸 。10日午前0時まで来客なし。
~Epilogue~ 西日本豪雨発災からの政府・与党の動向を時系列で確かめてみると、
“この国の危機管理そのものが危機的状態” にあると再認識させられます。
まず11日にメディアでも報じられた7月5日の
『赤坂自民亭』 の一件は、気象庁が「記録的な大雨となるおそれ」を緊急会見して警戒を呼び掛け、数十万人が避難を求められている当夜のことであり、担当閣僚であれば不測の事態に備えていることが良識と考えますが、
緊急対応が想定される安倍首相や西村康稔官房副長官、小野寺五典防衛相までもが飲み会に参加 していることは大きな問題です。
同飲み会に過去一度も顔を見せたことのなかった安倍首相がこの夜に限って参加した背景には、
【総裁選への支持固め】 があるといわれています。
また、衆目の集まる
【オウム事件の麻原彰晃らの死刑執行】 をこのような状況下で
災害報道を阻害 することは、「自明の理」だったはずです。
同6日からは
『カジノIR法案』 と『参院定数6増法案』が参院で審議入りしており、特に『カジノ法案』は
災害対応の先頭に立つべき石井啓一国土交通相 が担当の法案であることから、野党が「国会は休会とし災害対応に全力で取り組むよう」提案したものの自民党に却下され、その後も
石井国交相が日々6時間この法案審議に忙殺 されています。
「カジノの審議が遅れて誰か人死にますか? 国民生活、誰か困りますか? 困るの、利害関係者だけじゃないですか?」 by 山本太郎 自由党共同代表(参院内閣委員会 7月10日) しかし今回の災害対応で最大の問題は、
『非常災害対策本部』の設置があまりに遅かった ことです。
それ以前も一定の気象状況が予測される場合、官僚によって自動的に設置される対策室がありますが、『非常災害対策本部』は内閣の政治判断により設置され、通常の省庁縦割りを解いて官僚が防災担当大臣の指揮下に入るまさに
「非常体制」 を意味します。
しかし
今回非常災害対策本部が設置されたのは前日までに9府県(当日に+2県)に大雨特別警報、863万人に避難指示・勧告が出され、気象庁の緊急会見から66時間(最初の大雨特別警報から39時間)が既に経過した後 のことであり、人命救助の可能性を考慮すると[災害発生から72時間]が最重要とされる緊急時の対応として、あまりに遅過ぎたと言わざるを得ません。
『非常災害対策本部』設置が遅れた背景には、【
11日からの外遊実現を官邸側が最後まで模索 していた】ことがあり、
「非常事態宣言」してしまうと外遊に行けなくなってしまう ため、ともいわれます。
また、災害発生から5日間の[首相動静]をみると、
安倍首相は4/5日を緊急対応に 最善である公邸ではなく
不利な私邸に宿泊 しており、これは関係閣僚会議で安倍氏自身が述べた「事態に即座に対応」に自ら反する対応でした。
こうした政府・与党の一連の災害対応について「長期政権の緩み」を指摘する声がありますが、
“これは安倍氏自身の体質” と私は考えます。
何故なら、4年前に77人の死者を出した
2014年8月20日【広島土砂災害】 でも、彼は“同じ対応”を執っているからです。
8月20日当日、安倍首相は夏休みで山梨県の別荘に所在し、午前6時半に関係機関に指示(6時過ぎには既に
5人の行方不明 が報じられていた)をすると、
その後9時19分までゴルフをプレー し、
午前10時59分に官邸へ帰着 し対応にあたりました。
しかし17時28分に
「32人死亡9人不明」 と報じられた26分後、安倍首相は公邸を出て
再び別荘に戻って一泊、翌21日15時17分ごろ官邸入り 、公務に復帰…という災害対応が、当時の国会で激しく批判を浴びました。
また記憶に新しい所では、今年6月18日に発生した震度6弱の
【大阪府北部地震】(死者4名)の当夜も、赤坂の日本料理店に岸田文雄自民党政調会長を呼び、2時間以上会食 していたことが一部報じられています。
(これについて岸田氏は「北朝鮮と終盤国会、もちろん総裁選挙の話もあった」と記者団に語っている)
ここまで随分書いたつもりですが、実は今回の災害対応だけで、
これが一国の安全を預かるリーダーたちのレベルなのかと耳を疑う欺瞞や問題 が、ここに書き切れないほどあります。
それを踏まえた私の心境を例えるなら
“酔っ払い運転手の車に乗っている気分” であり、国民は、いま現在こうした運転手に自分と子どもの命を預けている危険性を知るべきです。
知ってこれを徹底的に検証し、過ちはきちんと改めさせ、責任を取らせるべきです。
“いつかまた、この国の何処かで起こるであろう災害を、利己的で無責任なリーダーの安全管理の下で迎えたくなければ…。”
When friends are hard to find 手をさしのべてくれる友だちが見つからず And life seems so unkind 情けない思いをして Sometimes you feel afraid 時々、不安になることもあるだろう まだまだいっぱいやりたいことがあるのに突然の災害で命を奪われたり、
これからもずっと共に生きてゆくはずの大切な人を失ったり、
何十年ローンの残った新築の家が無残に押し流された失望は、想像に絶する無念に違いありません。
私自身はそれほどの重大事を体験したわけではありませんが、
「Y.M.C.A.」 の記事を編集した際、今年5月に亡くなられた歌手の
西城秀樹さん の生き方がとても教訓になりました。
華やかなスターが2度の脳梗塞に見舞われ、神経麻痺のため普通に会話することや歩くことさえできず、周りから好奇の目で見られる存在となった自分…
多くの葛藤を越え、西城さんが最後に辿り着いた結論が
“現状をすべて受け入れ、そこからまた始める” でした。
どんな名医も彼の苦しみのほんの一部しか救い得るものではなく、当たり前の日常を取り戻すために医師や家族が手を貸してくれるかもしれない…でも普通に会話したり歩けるようになるには、誰より自分自身が努力しなければ這い上がることさえできない。
厳しく辛い道のりだけど、それが
“生きる” なのだと学びました。
恐らく西城さんの出した結論は、万人にとっても“道標(みちしるべ)”となり得るでしょう。
でもそこに辿り着くために要する時間は、きっと人それぞれだと思います。
深い悲しみの淵にあるあなたが、一日も早く乗り越えられますよう
願いを込めて…。
「悲しみをこえて」 VIDEO 続きはこちら >>
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