「ひとりぼっちのロンリー・ナイト」はポール・マッカートニー1984年の5thアルバム『ヤァ!ブロード・ストリート(Give My Regards to Broad Street)』の収録曲です。 アルバムから唯一のシングルで、1984年9月24日にリリースされ US Billboard Hot 100 で6位(1985年の年間72位)、全英は2位(年間22位)を記録しました。 楽曲はポール自らが主演/脚本/音楽を務めた1984年のミュージカル映画『ヤァ!ブロード・ストリート(Give My Regards to Broad Street)』の主題歌として創作され、1984年『ゴールデングローブ賞』[Best Original Song]、1985年『英国アカデミー賞』[Original Song Written for a Film]にノミネートされています。
「ひとりぼっちのロンリー・ナイト」には【バラード編】「No More Lonely Nights (Ballad)」と【プレイアウト編】「No More Lonely Nights (playout version)」があり、本記事で主に扱うのは【バラード編】です。
【バラード編】は「Yesterday」や「My Love」に通じる甘くせつないバラードで、デヴィッド・ギルモア(ピンク・フロイド)とエリック・スチュワート(10cc)がゲスト参加しており、特に間奏部やアウトロのデヴィッドによるギター・ソロは甘さ一辺倒を緩和する効果を与え、聴き所の一つです。 またバラード編は3種類あって、[アルバム ver.]は冒頭に雨音のSEとベースが入っており、[シングル ver.]はいきなりの歌い出し、「バラード/リプライズ ver.」は「No Values〜No More Lonely Nights (ballad reprise)」と表記され判り辛いのですがこのパートの終末部に入っている僅か十数秒ほどのストリングス・インストゥルメンタルで、「No Values」と次曲「For No One」の橋渡しとなっています。
意外に面白いのが、しっとりバラードをダンス調に変えた【プレイアウト編】です。 「No More Lonely Nights」のオリジナルは【バラード編】ですが、ポールらしいというか、やっぱり映画は素人というか… 実は、映画が出来上がって配給元の20世紀フォックスに見せた所、エンドロールに音楽がないことを指摘され、主題歌をアップテンポにしたものを入れたらと要望を受けて【プレイアウト編】が生まれました。 そのためかギター系、キーボード、ドラムスをポール一人で演奏しており、せつないはずのメロディを残しながらリズムを崩して楽しいダンス調に変える芸当をいとも簡単にやってしまう彼の音楽センスには、改めて驚かされるばかりです。
残念なのは、「No More Lonely Nights」がチャート的にも、楽曲的にもポールの80年代のベストに入る作品でありながら、恐らくツアーで演奏されていないことです。 80年代のの楽曲では「Coming Up」(過去ログ)が多用されるくらいで、後は89年からの【ゲット・バック・ツアー】で直近の『Flowers In The Dirt』の楽曲や「Ebony And Ivory」(過去ログ)が取り上げられたことはありますが…。 ポールにとって80年代は、“忘れ去りたい時代”?
~『ヤァ!ブロード・ストリート(Give My Regards to Broad Street)』~
1982年11月、ポール自らが主演/脚本/音楽を務めるミュージカル映画『ヤァ!ブロード・ストリート(Give My Regards to Broad Street)』がクランク・イン。 ミュージカル映画で最も大事な要素といえば【音楽】ですが、そこはギネスブックに【ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家】として認定されたポール、何の心配も要りません! ポールがポール・マッカートニーというミュージシャンを演じる物語であり、“僕の映画にビートルズの曲が入っていなければ観る人は納得しないだろう”と考え、解散後初めてビートルズの楽曲を再録音することを決め「Yesterday」「The Long And Winding Road」(過去ログ)ほか6曲を採用、ウイングスからも「心のラヴ・ソング」、近年のソロ3曲、新曲3曲ほか珠玉の名曲の数々をセルフ・カバー&新録しています。
一方、映画作品としての評価はジョージのそれが象徴しています。 本作は、ポールのニュー・アルバムのマスター・テープが行方不明になり、それを探索する物語であり、この発想自体はセックス・ピストルズ1977年のスタジオ・アルバム『勝手にしやがれ!!(Never Mind the Bollocks, Here's the Sex Pistols)』のオリジナル・マスター・テープが紛失した事件からヒントを得ているといわれます。 (同作のプロデューサー、クリス・トーマスはウイングスの『Back to the Egg』のプロデューサーでもある)
「カミング・アップ」はポール・マッカートニー1980年5月16日(UK)発表の2ndソロ・アルバム『マッカートニーII (McCartney II)』の収録曲で、同4月11日に先行シングルとしてカットされ、全英2位/アメリカBillboard Hot 100でNo.1(3週/年間7位)を記録しました。 本曲のスタジオ音源はポールのソロ作品ですが、それ以前にもウイングスのUKツアーで演奏されており、シングルB面には1979年12月17日に行われたWingsのグラスゴー公演(スコットランド)のライブ音源「Coming Up(Live at Glasgow)」が収録されています。 アメリカでは、契約先であるコロムビア・レコードが“アメリカ人はポールの本当の声の方を好む”との判断から、B面のライブver.をプロモート(事業推進)する独自の方針が採られ、ラジオ局も主にライブver.を流し、シングルを買った人の多くもそれを想定して購入していたため、実質的に「Coming Up(Live at Glasgow)」がA面と認識されました。
「Coming Up」はウイングスの『Back to the Egg』発表後の1979年夏にポールがスコットランド自宅農場のスタジオでワンマン・レコーディングしたもので、スタジオver.はポールがヴォーカル/キーボード/ギター/ベース/ドラムス、奥さんのリンダがコーラスを担当しました。 当時はクラフトワークやYMOなど“テクノポップ”(Technopop)が世界的なブームとなっており、サウンドにはその影響が強く感じられます。 実際にポールは、まず最初にドラム・トラックから取り掛かり、ギターとベースを加え、ヴォーカルは後回しというリズム重視の創作過程が採られ、ポールの声も【vari-speed】というテープマシンを使用して録音されました。
PVもワンマンな創りとなっていて、“The Plastic Macs”なる怪しげなバンド(Plastic Ono Bandに敬意を表したネーミング)をポールとリンダが一人何役も務めています。 その何れも個性的なキャラクター揃いですが実在の人物で、ハンク・マーヴィン(The Shadowsのギタリスト)やロン・メイル(Sparksのキーボード)、ジョン・ボーナム(Led Zeppelinのドラマー)、バディ・ホリー、アンディ・マッケイ(Roxy Music.のサックス)、フランク・ザッパなどをポールが一人で演じました。 でも、忘れてはならないのはそこにBeatles時代のポール自身も含まれていることで、それについてポールは“(役が多過ぎて)最後はほとんどウンザリしてしまったよ。でも昔の衣装を着たらそれが過去のことだと思えなくて、本当に20年前に戻ったような感覚だった”と語っています。
意外な所ではジョン・レノンが“a good piece of work”と高く評していることで、とりわけ“ライブ・バージョンよりスタジオ・テイクの方がぶっ飛んでて好き”と言及したそうです。 ジョンは1980年10月に「(Just Like) Starting Over」で音楽界に復帰していますが、ポールの「Coming Up」がそれを早めたとする説もあります。
「Coming Up」は1989年からの『The Paul McCartney World Tour』以降ライブで取り上げられることの多いナンバーで、2009年にポールが出演した『Late Show with David Letterman』ではビートルズ時代以来の『Rooftop Concert』を実現させていますが、本曲もそのセットリストの一つとして演奏されました。
~Lyrics~
You want a friend you- can rely on 頼れる友だちがお望みかい? One who will never fade away 決して色褪せることのないやつ
そして、この時日本の留置場で付けられたポールの番号が“22番”でした。 また、YMOの「NICE AGE」で“22番”“Coming up like a flower”とアナウンスしている女性はサディスティック・ミカ・バンドの加藤ミカ(1975年以降は福井ミカ)で、実は1月16日の事件当日ポールに同行していたメンバーの一人だったのです。 ウイングス1979年のアルバム『Back to the Egg』にはビートルズの『ホワイト・アルバム』のアシスタント・プロデューサーだったクリス・トーマス(Chris Thomas)がプロデューサーとして携わっていますが、彼は1974年にサディスティック・ミカ・バンドのプロデューサーも務めており、以来ミカとは恋仲で、そうした縁から彼女はポールの来日に際しての案内役を任され、事件が起こらなければウイングスとYMOのセッションが行われる予定だったといいます(YMOの高橋幸宏も元ミカ・バンドのメンバー)。
ところで、ポールは今年6月にCBSのトーク番組『The Late Late Show with James Corden』の人気コーナー【Carpool Karaoke(相乗りカラオケ)】に出演し、日本で逮捕され留置場に入れられた際のエピソードについて回顧しています。 ポールがこの事件で拘留されたのは1980年の1/16-1/25までの9日間ですが、“有名人じゃなかったら7年間の労役だった”と告白しました。 また、留置場で最後の日に他の囚人と一緒に共同浴場で入浴したそうで、その理由について“イチゴ畑で永遠に(Strawberry Fields Forever)働いてるような匂いがしてきたから”と、彼ならではのユーモアを交えてその時の状況を説明したそうです。
Paul McCartney & Stevie Wonder - Ebony and Ivory (1982年)
~Oh Lord, Why Don't We?~
「Ebony and Ivory」はもう35年前に発表された作品ですが、人類は現在も“この問題”を争い続けています…。 8月12日、アメリカ・バージニア州シャーロッツビルで集会した白人至上主義者らとそれに抗議する人々(カウンター)が衝突し、ナチス・ドイツの総統ヒトラーを崇拝する白人至上主義者の男がカウンターの群衆の中に車を突進させ女性1人が死亡、19人が負傷する事件が発生しました(⇒記事)。
「Ebony and Ivory」は1982年ポール・マッカートニーの4thアルバム『タッグ・オブ・ウォー(Tug of War)』からの1stシングルで、Billboard Hot 100は7週No.1(年間4位/2013年の“All-Time”ランクで69位)でビートルズ時代の「抱きしめたい」に並ぶ生涯2番目のNo.1獲得週数で、イギリスでも週間No.1を記録し、意外にもビートルズ以外では唯一の英米No.1達成シングルです。 白人ロック界のスーパースターのポールとブラック・ミュージックを代表するスティーヴィー・ワンダーという“夢の共演”の仕掛け人はポール本人で、コメディアンのスパイク・ミリガンの言葉"black notes, white notes, and you need to play the two to make harmony, folks!"から「Ebony and Ivory」を“ピアノの鍵盤で白人と黒人の調和の比喩”とするアイデアを得て、その相手[Ebony]として希望したのがスティーヴィーでした。 実は、ポールは“Little-”時代からスティーヴィーのファンで、ウイングス1973年の『Red Rose Speedway』アルバム・ジャケットに刻まれた“We love youの点字”がスティーヴィーに宛てたメッセージであることは有名です。
反面、ポールとスティーヴィーがピアノを連弾する微笑ましいPVは実は“合成”で、二人はスケジュールが合わなかったためポールはロンドンで、スティーヴィーはロサンゼルスで撮影したものを一つに編集し、更にポールはこの頃習得した“分身の術”も披露しています。 デュエットという特殊形態のため二人による再現はごく限られていますが、1989年11月27日にポールのロサンゼルス公演にスティーヴィーが飛び入り参加したという記録があります。 また、2010年にポールは米国議会図書館がポピュラー音楽で世界の文化に大きな影響を与えた作曲家・演奏家に贈る“ガーシュウィン賞”を受賞していますが、6月2日に授賞式&トリビュート・コンサートがオバマ大統領出席のホワイトハウスで開催され、その際、前年同賞を受賞したスティーヴィーと「Ebony and Ivory」の再演を実現させました。
~We All Know That People Are The Same Where Ever We Go~
Ebony And Ivory Live Together In Perfect Harmony 黒鍵と白鍵、ピアノの上で寄り添い Side By Side On My Piano Keyboard, Oh Lord, Why Don't We? 完璧なハーモニーで共に暮らしてる…あぁ神さま、どうして僕らはそうじゃないの?