「フール・オン・ザ・ヒル」の作者/ヴォーカルはポール・マッカートニーで、『Sgt. Pepper's』の「With a Little Help from My Friends」(過去ログ)のセッション中にアイデアを思いつき、ジョン・レノンに演奏して聴かせると“書き留めとけ”と勧められるほど気に入られ、1980年にもジョンは Playboy 誌のインタビューで“良い歌詞だ。彼の完璧な曲を書く才能を証明している”と絶賛しました。
「The Fool On The Hill」は1967年9月6日、最初にポールのピアノ弾き語りのデモテープとして録音されました(『The Beatles' Anthology 2』demo)。 その後9月25日に正規の録音が開始され、ジョン&ジョージのハーモニカとポールのリコーダー、リンゴのドラムを加えた「Take 4」を作成しますが(『The Beatles' Anthology 2』Take 4)この時点で歌詞は完成しておらず、翌9月26日に殆んどの楽器を差し替えた音源が作成され、これにフルートなどオーバーダビングしてマスターとなっています。 映画のサウンドトラックとはいえ、「The Fool On The Hill」は“摩訶不思議な行き先秘密の小旅行”がテーマの物語にそぐわない作風であった事に加え、楽曲に相応しい撮影場所が見つからなかったためポールがメンバーから離れ単身フランスのニースに渡って撮影しており、これが逆に美しく幻想的な風景と“ひとりぼっち”な雰囲気を醸し出す効果となりました。
ビートルズ自身のシングル・カットはありませんがブラジルのミュージシャン、セルジオ・メンデス(Sergio Mendes & Brasil '66)によるボサノヴァ風カバーが1968年にBillboard Hot 100 の6位(年間69位)を記録したほか、フォー・トップスやシャーリー・バッシー、ヘレン・レディなど多くのミュージシャンにカバーされました。 もちろんビートルズによるライブ演奏はないものの、ポール率いるウイングス1979年のツアーで初演され、また初めてビートルズの楽曲をふんだんに盛り込んだ1989-90年の『ゲット・バック・ツアー』ではポールの“この曲をジョン、ジョージ、リンゴに捧げます”の紹介から演奏が始められたことをご記憶の方も多いでしょう。
本作の主人公について、ビートルズのマネージャーであったブライアン・エプスタインのアシスタントとしてデビュー前からメンバーとプライベートな時間を共有してきたアリステア・テイラー(Alistair Taylor)の著書『Yesterday: My Life With the Beatles』によると、ポールと彼の愛犬マーサ(Martha)とロンドンのプリムローズ・ヒル (Primrose Hill)を散歩した際、不思議な男に出会ったことから着想を得ているとしています。 ポールが登る朝日を眺めている隙にマーサがいなくなってしまい、代わりにそこにはレインコートの紳士が立っていて、挨拶を交わし数秒後にふり返るといなくなっていた…というものです。
一方で1989-90年の『ゲット・バック・ツアー』で「The Fool On The Hill」のアウトロに、アメリカ公民権運動の指導者キング牧師(Martin Luther King, Jr.)の有名な【I Have a Dream】の演説が挿入されました。 単に“孤高の賢人”のイメージが重なるといえばそのとおりですが、私は別の共通点も見つけました。 キング牧師は1967年8月27日にイリノイ州シカゴのMt. Pisgah Baptist Churchで【Why Jesus Called a Man a Fool】と題する説教を行っており、その中に“And yet a Galilean peasant had the audacity to call that man a fool.(それでもまだキリスト教徒/ガリレオの小百姓は、あの男をばかと呼ぶ大胆さを持っていました)”という一節があるのです! 「The Fool On The Hill」のレコーディングは1967年9月以降なので、本作はこの説教からインスピレーションを得ているという説もアリ…?
And the eyes in his head その頭の中に See the world spinning around 回る地球を浮かべながら
このフレーズから、『地動説』を唱えてカトリック教会から有罪判決(無期刑)を受けた後も“E pur si muove「それでも(地球は)動く」”と主張した16-17世紀イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)を思い浮かべる方も多いでしょう。 ただしガリレオがこの発言をしたかは懐疑的とされ、彼は異端審問で「地動説を貫いて死を選ぶ」か「地動説を棄て生を得る」かを迫られ、後者を選択しています。 (当時カトリック教会の教義は『天動説』と一致しており、地動説はこれに反する考えだった)
ジョン・レノンは1967年に『ジョン・レノンの 僕の戦争 How I Won the War』という作品で、ビートルズ以外では初めて映画に出演しました。 その際ジョンは兵士役を演じるため長髪をバッサリ切り落としていますが、その時の毛髪が半世紀を経て先日オークションされた…というハナシ。 出品者はハンブルクの理髪師(映画の撮影はドイツだった)で、長さ約10センチの髪の束《写真》は2月20日の競売で3万5000ドル(約400万円)で落札されたそうです。
「ペニー・レイン」は1967年2月(英;17日/米;13日)にリリースした14枚目のオリジナル・シングル(「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と両A面)で、イギリスでは1963年の「プリーズ・プリーズ・ミー」(過去ログ)以来“4年ぶりに1位になれなかった”(3週2位)と騒がれたのは、ビートルズならではといえるのでしょう。 ビートルズ歴代でも屈指といえるこの超強力両A面シングルのNo.1を阻んだのはエンゲルベルト・フンパーディンクの「Release Me」という曲で、この出来事についてリンゴ・スターは“連続No.1がプレッシャーだったのでホッとした”と振り返り、『全曲解説シリーズ(2) ザ・ビートルズ』(邦題)でジョン・ロバートソンは“こんな結果になったことは、当時イギリスのレコード購買層だった者全員にとって永遠に恥じるべき”とまで言及しました。 一方アメリカBillboard Hot 100では「ペニー・レイン」が単独A面で、ビートルズ13番目のNo.1(1週/年間55位)に輝いています。 また、ローリング・ストーン誌“The 500 Greatest Songs of All Timeで449位”にもランクインしている楽曲でもあります。
イギリスには戦没者を追悼する“Remembrance Day(11月11日)”という記念日があって、募金の協力者に赤いヒナゲシの造花を配ることから“Poppy Day”とも呼ばれています。 ちなみに、1995年にリリースされた「Free as a Bird」のPVにはこのフレーズを想起させるワン・シーンが込められているので、見逃していた方はリンクからどうぞ♪
報道によるとリヴァプール市議会は先日、ビートルズが同市に与える経済および文化的影響について『Beatles Heritage In Liverpool And Its Economic And Cultural Sector Impact』なる報告書として初めて発表しました。 それによると人口約43万人のリヴァプール市に於いて、解散後40年以上経つにも拘らずビートルズに関連する経済効果は毎年15%伸びており、その額は8,200万ポンド(約137億円)/年にも及んでいるといいます。
Penny Lane is in my ears and in my eyes ペニー・レインは、今も僕の目と耳に残る故郷の情景 There beneath the blue suburban skies 街はずれの青い空の下 I sit, and meanwhile back そこに座り、あの頃を思い出す