「ルック・アウェイ」はアメリカのロック・バンド【シカゴ】1988年の19thアルバム『シカゴ19(Chicago 19)』の収録曲です。 同年9月に2ndシングルとしてカットされると12月にBillboard Hot 100で2週No.1を記録し「愛ある別れ」(1976)、「素直になれなくて」(1982)に次いで“6年毎のNo.1”を見事成立させました。
また、年間チャートではBillboardの集計ルール(12月最初の週から11月最後の週までで集計)により翌年度扱いとなり、バンド初の1989年の年間No.1ソングに輝いています。 ただし同年度には4週No.1の「Miss You Much」(年5位)、3週No.1に「Like a Prayer」(過去ログ/年25位)ほか6曲、2週No.1が7曲と、「ルック・アウェイ」と同等以上の候補が13曲あったことから、これは多くの人にとって意外な結果でした。 そんな中で「ルック・アウェイ」が年間No.1に輝いたのは、恐らくTop10内8週/Top40内16週という息の長いヒットによるもので、年間2位の「My Prerogative」もNo.1は1週だけでした。
When you called me up this mornin' 今朝、君からの電話 Told me 'bout the new love you found 新しい恋人を見つけたって I said, "I'm happy for you, I'm really happy for you" “良かった、本当に良かったね”…言葉を贈る
ダイアンは楽曲提供の際、彼女自らが歌ったデモ・テープを渡していたようで、プロデューサーのロン・ネヴィソンは“彼女のデモはいつもとてもシンプルだけど、いつも素晴らしいヴォーカル・パフォーマンス”と、賞賛しています。 今回、そんな彼女が「Look Away」と「I Get Weak」(ベリンダ・カーライルへの提供曲)を歌う貴重な映像を発見しました。
But if you see me walkin' by でも、もし何処かで僕を見掛けても And the tears are in my eyes この目に涙が溢れていても Look away, baby, look away 顔を背け、僕を見ないでおくれ
「追憶」は1973年の映画『追憶(The Way We Were)』のために書き下ろされた主題歌であり、主演であるバーブラ・ストライサンド自らが歌った歌曲です。 作詞は1982年の映画『トッツィー』の「君に想いを」(過去ログ)の作者でもあるアラン&マリリン・バーグマン(Alan and Marilyn Bergman)夫妻、作曲は舞台『A Chorus Line』のマーヴィン・ハムリッシュ(Marvin Hamlisch)、プロデュースはTOTOのデヴィッド・ペイチのお父さんマーティ・ペイチ。
1973年9月27日に映画に先行してシングルがリリース、10月に映画が公開されると同年の北米興行収入5位に相当する大ヒットを記録しました。 年が明けた1月1日、映画のオリジナル・サウンドトラック『The Way We Were: Original Soundtrack Recording』とバーブラの15thアルバム『The Way We Were』が同日発売されるというトラブルが発生したものの、どちらもBillboard 200で20位とNo.1という成功を収めています。 そして2月、シングル「The Way We Were」もBillboard Hot 100で3週No.1(1974年の年間No.1)に輝き、バーブラに初のNo.1曲をもたらしました。
1974年4月の第46回アカデミーに於いて「The Way We Were」はアカデミー作曲賞(Academy Award for Original Music Score;マーヴィン・ハムリッシュ)とアカデミー歌曲賞(Academy Award for Best Original Song;作詞アラン&マリリン・バーグマン/作曲マーヴィン・ハムリッシュ)を、更にはゴールデン・グローブ主題歌賞(Golden Globe Award for Best Original Song)も受賞しました。 また、翌年グラミー最優秀楽曲賞(Song of the Year)にも輝いています。
バーブラを代表する曲の一つであり現在まで多くのパフォーマンスを披露したほか、2014年にはライオネル・リッチーとのデュエットでセルフ・カバーも果たしています。 そのほかのカバーはグラディス・ナイト&ピップスver.が有名で、1975年にHot 100で11位を記録しました(まったりテイスト)。 また、2008年の『Kennedy Center Honors』でバーブラの目前で捧げられたビヨンセのパフォーマンスは、“これぞ女王”の美しさです! 意外なのは(バーブラ熱の高くない)日本での人気で、松田聖子や薬師丸ひろ子、テレサ・テン、岩崎宏美、桜田淳子、尾崎紀世彦ほか多くの歌手がカバーしています。
「見つめていたい」はポリスの最大のヒット作にして現在までで最後のアルバム、1983年の『シンクロニシティー(Synchronicity)』の収録曲で、1stシングルとしてBillboard Hot 100で8週連続No.1(年間No.1)を達成、これは「Physical」(10週)「Bette Davis Eyes」「Endless Love」(9週)に次いで80年代で4番目の記録であり、同チャートが2013年に集計した『55th Anniversary: The All-Time Top 100 Songs』では28位にランクされた作品です。 言うまでもなくポリス&スティング最大のヒット曲であり、第26回グラミー賞では“Song of the Year”と“Best Pop Performance by a Duo or Group with Vocals”をもたらしました。 また、ローリング・ストーン誌は本曲を“The 500 Greatest Songs of All Time 84位”に位置づけています。
「Every Breath You Take」の楽曲の作者はスティングで、夜中にアイデアが浮かびピアノを用いて30分くらいで書き上げたそうです。 一方、有名なギターのアルペジオはアンディ・サマーズによる貢献で、当初スティングがバンドに持ち込んだとき本曲はビリー・プレストン風のハモンド・オルガンによるデモ音源だったそうで、明らかにポリスの志向とは違っていため、アンディはこの頃ロバート・フリップとの共演経験から、20世紀前半に活躍したクラシック音楽の作曲家/ピアニストであるバルトーク・ベーラとバイオリンを共演するイメージでフレーズを創り上げたといわれます(ロバート・フリップはバルトークを音楽的ルーツとするギタリスト)。
そして、アンディ自身“このアルバムで最も演奏が難しかった”と語るこの名ギター・リフは、1997年にアメリカのR&BユニットPuff Daddy & Faith Evans ft.112の「I'll Be Missing You」に丸々サンプリングされHot 100でオリジナルを大きく上回る11週No.1の大ヒット、ちなみにこの作品ではコーラス部分にも「見つめていたい」の楽曲&歌詞フレーズがカバーされています(“I'll be watching you”の歌詞を“I'll be missing you”と替えて歌っている)。
また、「見つめていたい」が優れているのは楽曲や演奏に止まらずミュージック・ビデオも80年代を代表する名作であり、“MTV Video Music Award for Best Cinematography”を受賞しました。 制作したのは前回デュラン・デュランの「View To A Kill」で近未来的な映像も手がけたゴドレイ&クレームで、他にもハービー・ハンコックの「Rock It」やエイジアの「Heat Of The Moment」(過去ログ)など時代の先端をゆく映像を多く手掛けた映像ディレクターです。 「見つめていたい」のサウンドは無駄な装飾を極限まで削いで3人の歌と演奏・楽曲の魅力を引き立たせましたが、カラーが当たり前となっていた時代、この映像が表現した“白と黒の世界”は逆に鮮烈を与えました。
~Lyrics~
Every breath you take その息遣いすべて Every move you make 振舞いのすべて
【Every...】で始まるラインをひたすら繰り返す定型詩。 これらのフレーズを【I'll be watching you】で括(くく)っていることから、主人公の[you]への強い思い入れが伝わってきます。
しかし翌28日、事務総長側はプレスリリースで特別報告者の件について“特別報告者は人権委員会に直接報告する独立した専門家であるSpecial Rapporteurs are experts that are independent and report directly to the Human Rights Council.” と外務省と相違する内容の文を明記し、そこには外務省が発表した“必ずしも国連の総意を反映するものではない”に該当する記述はありませんでした。 また慰安婦問題の件についても、日韓合意によって解決されるべき問題であることに同意したことは認めているものの、“事務総長は特定の合意内容については言及していないが、問題解決の方向性や内容を決めるのは日韓両国次第だという原則について述べたThe Secretary-General did not pronounce himself on the content of a specific agreement but on the principle that it is up to the two countries to define the nature and the content of the solution for this issue.” とあり、これも外務省の“同合意につき賛意を示すとともに,歓迎する旨述べた”という発表とは相違があります。
キム・カーンズは高校を卒業してすぐ小さなクラブで歌い始め、1966年にケニー・ロジャースやジーン・クラーク(The Byrds)らも参加したフォーク・グループのニュー・クリスティ・ミンストレルズ(The New Christy Minstrels)に一時参加、その後ソロとしても何枚かのレコードを出しますがヒットには恵まれませんでした。 転機は1978年にEMIに移籍した辺りで、この頃から旧友ケニー・ロジャースとのデュエットを含め徐々にヒット作も出るようになっています。
決定打となったのは1981年、往年の女優ベティ・デイヴィスをテーマにした「ベティ・デイビスの瞳(Bette Davis Eyes)」がBillboard Hot 100で9週No.1&年間No.1に輝いたことでした。 「Bette Davis Eyes」は翌年のグラミーでも“Record of the Year”と“Song of the Year”の主要2部門を独占し、さらに2013年にはBillboard Hot 100の55年を総括する“The All-Time Top 100 Songs”で堂々の14位にランクされる歴史的大ヒット曲でもあります。
She's ferocious and she knows just 女は残忍で、まるで熟知している What it takes to make a pro blush “頬を染めるプロ”に欠かせぬものとは、何かを
う~ん… 女性のみなさんは、“その正体”を隠しておきたいのでは?
実はオリジナルのジャッキー・デシャノンの歌詞とは一部異なる部分が存在し、これは単純ミスとも“故意”ともいわれるとか? 【pro blush】はオリジナルでは【crow blush(カラスの赤面)】という言葉が用いられており、20世紀初頭・アメリカ中西部で使われた俗語【could make a crow blush(人は、労せずして誰かを不安に陥れることができる)】に由来しているそうです。
She's pure as New York snow 冷めることない小さな手は、熱情を蓄え She got Bette Davis eyes ベティ・デイビスの瞳を湛える女
「Bette Davis Eyes」のインスピレーションについて作者のドナ・ワイスは、ベティが“アカデミー主演女優賞”を受賞した1938年の映画『黒蘭の女(Jezebel)』を挙げています。 主人公は“気の強いわがまま娘”という設定のようですがここで参照のシーンだけでもそれが窺え、相手役のヘンリー・フォンダは“しっかり振り回されて”います! でも“セクシーな悪女”を想像させるキム・カーンズver.に比べたら、実際はとても可愛らしい女性…?
ファレル・ウィリアムスはアメリカの音楽プロデューサー/R&B歌手であり、ファッション・デザイナーです。 日本では『BILLIONAIRE BOYS CLUB/ICE CREAM』などのブランドをプロデュースし、何より昨年ユニクロ『UT』のメインキャラクターとしてお馴染みですね♪ 今年グラミー3冠を受賞したファレルですが、実は昨年第56回グラミー賞でも“最優秀プロデューサー”ほか主要2部門(最優秀レコード&最優秀アルバム)を含む計4冠を獲得をしているのです!
そのファレルが自身のアルバムとしては実に8年ぶりとなる2ndソロ・アルバム『ガール(G I R L)』を発表したのが昨年3月でした。 「ハッピー」はその収録曲で、同曲はまず2013年7月公開のアニメーション・コメディ映画『怪盗グルーのミニオン危機一発(Despicable Me 2)』挿入曲として発表され、同年第86回アカデミー歌曲賞にノミネートされましたが惜しくも『アナと雪の女王』の「レット・イット・ゴー」(過去ログ)に敗れています。
シングルとしては2013年11月21日にリリースされ、Billboard Hot 100では実に3カ月以上費やし翌年3月8日付にチャートの頂点に立つとそれから10週No.1を保持する2014年の年間No.1ソングに輝きました。 ヒットは英米に止まらず22ヶ国で1位を記録し、全世界1200万以上のセールスを挙げています。 作詞・作曲/プロデュースはもちろんファレルですが、元々はシーロー・グリーンのために書いた楽曲だったものの彼の所属するエレクトラ・レコードに断られ、自分で歌うことになったそうです。