「ラヴ・サムバディ」はビー・ジーズがイギリスのポリドール・レコードに移籍後1967年6月にリリースした2枚目のシングルで、イギリスで41位/アメリカBillboard Hot 100で17位を記録し、2012年にはNME誌“100 Best Songs of the 1960s 94位”にもランクインした楽曲です。 リリースされた翌7月には1stシングル「ニューヨーク炭鉱の悲劇(New York Mining Disaster 1941)」も収録したアルバム『Bee Gees' 1st』を発表、英8位/米7位を記録するなど非常に順調な滑り出しとなりました。
一方、そんな時系列の中でビー・ジーズにまつわる人々が対照的な運命を辿っています。 1967年にビー・ジーズをオーストラリアからイギリスへと誘致し、彼らを世界的バンドに育て上げたマネージメント会社『NEMS(ネムズ)エンタープライズ』の経営者は、ビートルズを発掘したマネージャーでもあるあのブライアン・エプスタインですが、そのブライアンが同年8月27日に急死してしまったのです。 また、同じアトコ・レコードに所属するアメリカのソウル・シンガーで、ビー・ジーズの才能を愛し「To Love Somebody」を歌う予定もあったとされるオーティス・レディングも、1967年12月10日に自家用飛行機の墜落事故によって非業の死を遂げてしまいました。
「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」は1977年の映画『サタデー・ナイト・フィーバー(Saturday Night Fever)』で、ジョン・トラボルタが圧巻のダンス・パフォーマンスを演じるシーンが有名ですが、実はこの映画のために書かれた楽曲ではなくビー・ジーズ1976年のアルバム『チルドレン・オブ・ザ・ワールド(Children of the World)』に収録された作品でした。 同アルバムからの1stシングルとしてカットされ、同年9月に自身3作目となるBillboard Hot 100のNo.1(年間31位)に輝いています。
ビー・ジーズは前作『Main Course』でそれまでのソフト・ロック路線を「Jive Talkin」などディスコ路線に転換し大成功を収めていますが、所属レーベルの都合により『Children of the World』ではプロデューサー(アリフ・マーディン)の変更を余儀なくされてしまいます。 そこでリンゴ・スターの「You're Sixteen」(過去ログ)を成功に導いたリチャード・ペリーが選ばれたものの2日で決裂、結局前作に携わったスタッフの中からこれと思った2人(Albhy GalutenとKarl Richardson)が担当することとなり、不安の中での再出発でした。 しかし「You Should Be Dancing」が大成功を収めたことで不安は一掃、以降ビー・ジーズ及びバリー・ギブ関連作品に欠かすことのできない共同制作者( Gibb-Galuten-Richardson)として13曲の全米No.1シングルの輩出に関与することになります。
『Saturday Night Fever』サウンドトラックへの参加はビー・ジーズのデビュー以来のマネージャーであり、同映画のプロデューサーでもあったロバート・スティッグウッドの依頼によって『Children of the World』のレコーディングの最中にもたらされたものでした。 当初の要望では[新作4曲]でしたが、実際にはイヴォンヌ・エリマンが歌った「If I Can't Have You」を含む新作5曲に、既発の「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」と「ジャイヴ・トーキン」(映画本編では使用されていない)を加え計7曲を提供、(結果として)うち6曲が全米No.1に輝くという前代未聞のモンスター・アルバムが生まれる原動力となりました。
「You Should Be Dancing」は1999年にイギリスのクラブDJ[Blockster]にカバーされ全英3位を記録、2012年のアメリカ人気テレビ・ドラマ『glee/グリー』でのダレン・クリス(Darren Criss)らによるパフォーマンスも印象深いカバーです。
~ジョン・トラボルタの悲劇!?~
映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の中で「You Should Be Dancing」の見事なダンス・パフォーマンスを披露し、世界にディスコ・ブームを巻き起こした俳優ジョン・トラボルタですが、実は意外な事実があります。
ダンス・レッスンの初日に振り付け師から「You Should Be Dancing」の振り付けが示されると、それはまるで運動選手並の要求水準で、トラボルタ本人は恐ろしくなってプロデューサーのロバート・スティッグウッドに“絶対できない”と降板の電話を入れたものの逆に説得されて続投することとなりました。 しかしギャップを埋めるためにはかなりの筋力と運動能力の上積みが必要であり、昼3kmのランニング&夜3時間のダンス・レッスンという数カ月を乗り越えて9kgの減量と体力UP&振り付けの習得を果たしたそうです(トラボルタは当時の心境を“調教されてる馬の気分”と表現している)。
「You Should Be Dancing」を一聴すると直感的に印象づけられるのはラテンやファンク (funk)のリズム系で、従来のビー・ジーズの魅力とは対極のフィーリングにあるように思えます。 しかしそうしたリズム系の音一つひとつに耳を凝らしてみるとモーリスのベース・ラインやCSN&Yのスティーヴン・スティルスが参加したというパーカッション、トランペットなどアレンジが絶妙であり、非常に洗練されていることがわかるでしょう。 また、ヴォーカル・パートのみの音源を聴いてみるとハーモニーの美しさはやはりビー・ジーズならではであり、どれだけ音を重ねたのだろうと思わせられるぶ厚いサウンドはミキシングに10人がかりを費やしたというからオドロキです。
「イン・ザ・モーニング」は1971年公開の映画『小さな恋のメロディ(Melody/S.W.A.L.K)』の挿入曲として有名ですが、実は日本でよく知られるこのバージョンがオリジナルではありません。 元々は1965年にバリー・ギブが書き、翌66年ビー・ジーズの『Spicks and Specks』のセッションで演奏されたのが最初の録音で、この音源は4年後(1970年)の編集盤『Inception / Nostalgia』に収められるまで未発表のままでした。
そのため最初のレコード化はビー・ジーズによってではなく1967年6月にRonnie Burnsという人によってなされ、同年Esther and Abi Ofarimもドイツでヒットさせたほか、68年にはニーナ・シモンもジャズ・アレンジでカバーするなど複数の歌手によって歌われました。
その後1969~1970年中頃のビー・ジーズは分裂状態で、心機一転再起を目指し3兄弟が集結した1970年9月30日のセッションで「In The Morning」は再レコーディングされています。 そしてこの時の音源が『小さな恋のメロディ』のサウンドトラックに収録され、本曲のもつ静かなテイストは朝焼けを背景に映画のイントロダクションとして印象的な演出効果を果たしました。 残念ながら映画自体は欧米でヒットしなかったため、この映画に起用されたビー・ジーズの珠玉の楽曲の数々が脚光を浴びることはありませんでしたが日本は例外で映画もアルバムも大ヒット、「In The Morning」もシングルとしてオリコン36位を記録しています。
~Lyrics~
In the morning when the moon is at its rest, 朝、お月さまがおやすみする頃 You will find me at the time I love the best 僕の一番好きなこの時、二人は出逢う
日本で「In The Morning」というタイトルで知られるこの曲は、欧米では1971年のバージョンが「Morning Of My Life」と呼ばれています。 【the morning】は朝以外にも“初め(初期)”の意味があり、【the morning of life】だと“人生の夜明け,青春時代”という意味合いにもなります。 「In The Morning」は【the morning】と【the daytime(昼間)】、【the evning(晩)】という三部構成となっており、【the morning=青春時代】と解釈すると、それぞれ意味する年代も浮かび上がってくるはずです。