Bob Dylan - Masters of War (1963年)~ボブ・ディラン、最後の来日?~ デビュー以来50年以上もの間“時代の代弁者”として音楽界というカテゴリを越えて君臨し続けたボブ・ディランが2年ぶり、劇場公演としては15年ぶりとなる日本公演を行います。
4/4~28日の日程で全国5か所/12公演が予定されており、招へい元のウドー音楽事務所によると、もうすぐ75歳を迎える彼にとって“今回が最後の来日になる可能性が高い”とのこと。
今回のツアーでは「Masters of War」は演奏されていないようですが、近年の日本の置かれた政治状況を考えると彼のファンなら是非聴きたい作品ではないでしょうか…。
~概要~ 「戦争の親玉」は、ボブ・ディランを一躍有名にすることとなる楽曲
「風に吹かれて」 (過去ログ)を含む1963年の2ndアルバム
『フリーホイーリン・ボブ・ディラン(The Freewheelin' Bob Dylan)』 の収録曲です。
ディランの初期の曲の多くは作者が不詳のトラディショナル・ソング(伝統的な曲)を使用または加筆したものであり「Masters of War」も作詞は彼自身によるオリジナルですが、
曲はイギリスのフォーク・ソング「Nottamun Town」 を拝借 したものとなっています。
ところがこの「Nottamun Town」を、アメリカのフォーク歌手
Jean Ritchie がディランより先にレコーディングしていたため彼女によってクレームが入り、結局アレンジに対する彼女の権利を認めディラン側が5000ドル払って和解したそうです。
…とはいえ、彼の場合同じ楽曲でもライブのたびに全く違うアレンジ&メロディーとなってしまうので、権利を獲得してもあまり意味がないような気もしますが?
そのせいか1963年から30年間ディランは「Masters of War」をライブではアコースティックで演奏してきませんでしたが、1994年の広島公演で初めてアコースティックを披露しています。
極めてメッセージ性の強い「戦争の親玉」は後世とても多くの歌手によって歌い継がれており、ディランのアクの強さが苦手な人はマイルドな
Ed Sheeran が聴き易いでしょう。
でもディランが本当に凄いのはその
“空気の読まなさ” であり、彼は1991年2月に
“グラミー生涯功労賞” を受賞していますがその晴れの舞台で歌ったのが「Masters of War」!
この作品はタイトルの通り戦争指導者を強く非難している内容ですが、
この時“アメリカは湾岸戦争の真っ最中!” (アメリカは1991年1月17日にイラクへの侵略を開始)であり、この時式典を見ていた私はブッたまげました…。
VIDEO VIDEO VIDEO VIDEO ~3,721名の若者たちは、なぜ死ななければならないのか?~ 4月7日(1945年) は、旧大日本帝国海軍の
“戦艦大和が沈没した日” 。
松本零士原作の漫画『宇宙戦艦ヤマト』のモデルにもなったこの戦艦の名はあまりに有名ですが、全長263m/総排水量72,809t/46cm主砲を供え当時世界最大の“不沈艦”と称されたこの船が、どのようにして沈没に至ったかをあなたはご存知でしょうか?
しかし“日本(やまと)”の宿命を背負った大和の悲運は、日本(やまと)を継いだ現代の私たちに
大切な教訓 を遺してくれています。
どうか、最後までお付き合いくださいますよう…。
<概要> 1945年(昭和20年)3月26日、連合国軍の侵攻により沖縄戦( -6月23日)が開始。
これまでの戦闘で既に海軍・連合艦隊が壊滅状態であったため、日本軍はこの進攻を阻止する手段として
陸・海軍航空機による特攻 “
菊水作戦 ”を発令し、これに連携して連合艦隊も残りの船を集結させ
大和を中心とする第二艦隊を沖縄に支援 に向かわせます。
しかし4月7日、
第二艦隊は鹿児島県坊ノ岬沖にてアメリカ海軍空母艦載機の攻撃を受け大和以下6/10隻が沈没 (
坊ノ岬沖海戦 )、沖縄に到達する前に作戦を断念する結果に終わり連合艦隊は事実上ここに壊滅。
…と、教科書的・通り一遍な説明をしてみましたが、これでは歴史は何の教訓も伝えてはくれません。
そこで、順を追って説明を加えながら詳しく(…といってもかなり簡略化しています)経過を辿ってみましょう。
<経過詳細> 3月29日、連合国軍の沖縄侵攻に対する日本の方策について、
軍令部総長が “航空機による特攻で迎え撃つ”旨を
昭和天皇に奏上 。
その際、天皇に“総攻撃は航空部隊だけか?海軍にはもう艦がないのか?”と問われ、総長は
“海軍の全力を投じて作戦を行います” と答えたそうです。
(
連合艦隊は既に有効な作戦を組めるだけの艦船も燃料も無かった が、総長は面目なさからつい大風呂敷を広げてしまったのだろう)
その後
“大和による海上特攻”を考案した連合艦隊参謀 が、これに反対の上司(参謀長)を通さず直接連合艦隊司令長官と軍令部の許可を取り付けてしまいます。
(この頃、関門海峡や母港・呉までアメリカ軍の機雷で埋め尽くされるほど
日本は制海・制空権を失って おり、
通信も全てアメリカ軍に傍受・解析 され
偵察機や潜水艦が常時その動向を窺っている 状況で、常識的に考えて“艦隊が沖縄へ到達することはほぼ不可能”であり、反対者も多かった)
4月5日、連合艦隊参謀長(上で反対してた人)らが第二艦隊司令長官に
特攻を説得 するため大和を訪れますがこの無謀な作戦を承服するはずもなく、参謀側の“
要するに、一億総特攻のさきがけになって頂きたい 、これが本作戦の眼目であります”の一言に全てを察した司令長官もこれを了承したといいます。
(戦場から遠く離れた本部が立てた作戦など戦況を目の前で見ている部隊にとって的外れであることは少なくありませんが、この場合
“説得する側・される側の双方とも作戦は失敗すると知りながら任務に従って” いる)
その後、参謀長が第二艦隊の
艦長らを集め “今回の任務は沖縄に突入後艦を座礁させ砲撃を行い、
弾薬が尽きたら陸戦隊として敵へ突撃 する生還を期さない特攻作戦”であることを告げますが…。
(第二艦隊側からは
“陸戦武器がないじゃないか!” と作戦の不備を突かれてしまう。また、
当の沖縄第三十二軍司令官はこの作戦を無謀とし作戦の連携を断っている )
4月6日夕刻、第二艦隊は沖縄へ向けて出撃するも…
(案の定
アメリカ軍は通信傍受によりこの作戦の全てを事前に承知 しており、
第二艦隊の任務は“米・潜水艦&偵察機を帯同しての航行” となった)
4月7日正午過ぎ、アメリカ軍空母艦載機386機に襲撃され2時間余りで不沈艦は沈没。
(大和の艦長は着任4か月・航海長に至っては僅か1週間という
操艦の不慣れ に加え燃料不足から
殆んど訓練もできず 、
作戦の準備不足により他の部隊からの航空機援護も得られぬ 状況下の戦いであった)
~Epilogue~ …あなたは、一連の経過に何を思ったでしょうか?
『孫子の兵法』に、“兵とは国の大事なり、生死の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。(軍事は国家にとって重大事である。人の生き死に・国家の存亡を左右する。だからよくよく考えないといけない。)”という一節があります。
しかし大和の悲劇の経過を見る限り、当時国家の存亡を左右する立場にある人たちがよくよく考えた上で軍事を立案したわけでもなければ、“敵を知り、己を知れば百戦危うからず”に努めた気配さえ感じられません。
この時点で
最も重要な判断基準は、“それを実行すると最終的に戦争の勝ちに繋がるのか?” です。
それがあってこそ試みる価値のある作戦であり、
それを第一義に価値を量れぬ者が軍事を司ってしまったために生じた悲劇 といえます。
もはや敵と戦うだけの軍艦や航空機・燃料がないことを認知しながら自らの負け(過ち)を認めることができず、そのつじつま合わせを国民の“一億総特攻”に負わせようなど…。
もちろん、この海上特攻が何の成算もない“単なる理不尽の押しつけ”であることを、大和の若い兵士たちも知っていました。
この特攻で実際に大和に搭乗し、数少ない生還者の一人となった吉田満(当時・海軍少尉)の記録小説
『戦艦大和ノ最期』 には幾つかの映画にも使用された有名なエピソードがあります。
出撃前夜の酒宴で若者らがこの作戦について“戦死は軍人の誇りだ / いいや、これは無駄死にだ”と、激しい議論になりました。
そして、一人の青年が放った一言に一同は納得し、特攻の決意と覚悟を固めたとされます…
“進歩のない者は決して勝たない 負けて目覚める事が最上の道だ 日本は進歩という事を軽んじ過ぎた 私的な潔癖や徳義に拘って、本当の進歩を忘れてきた 敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか 今目覚めずしていつ救われるか 俺達はその先導になるのだ 日本の新生に先駆けて散る まさに本望じゃあないか” この
3月29日 、条件を満たせば自衛隊が世界中で武力行使可能となる
安全保障関連法が施行 されました。
それを左右する同盟国アメリカは1776年の建国以来、239年間で222年(約93%)何らかの戦争を行ってきた国…
私がもう一つ懸念するのは、自衛隊の最高指揮官である
安倍首相をはじめ政権の中枢を担う人たちのものの考え方が、先の戦争で日本を破滅に導いた軍指導者のように自分の願望で構想を描き、それに不都合な現実や人の意見を無視する傾向 が強過ぎること。
大和の沈没は決してカビの生えた歴史ではなく、3,721名の尊い命の代償で得た今なお耳を傾けるべき教訓。
どうかこの国の指導者は先人の過ちを謙虚に省み、もう二度と同じ悲劇を繰り返されませぬよう…。
「戦争の親玉」 VIDEO 続きはこちら >>
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1963年 フォーク 反戦 プロテスト *