Village People - Y.M.C.A. (1978年) 西城秀樹 - YOUNG MAN (Y.M.C.A.) (1979年)
~概要~
「Y.M.C.A.」は、アメリカのディスコ・グループ、ヴィレッジ・ピープル(Village People)1978年の3rdアルバム『Cruisin'』に収録されたダンス・ナンバーです。 US Billboard Hot 100の2位(1979年の年間8位)をはじめ各国でNo.1を記録、全世界では1000万枚を超える売り上げを記録しました。 アメリカのケーブルテレビ・チャンネル『VH1』は、2000年に本曲を【The 100 Greatest Dance Songs of the 20th Century】の7位に位置づけています。
日本では翌1979年2月21日に西城秀樹が「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」として日本語カバーしオリコン5週連続No.1を記録、累計売上80.8万枚を売り上げました。 この波及効果によりヴィレッジ・ピープルの「Y.M.C.A.」もオリコン洋楽チャートで1979年1 月22日付から10週連続1位を獲得、30万枚を売り上げる大ヒットとなっています。
中でも「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」の伝説的なエピソードとして語られるのは、当時人気の歌番組『ザ・ベストテン』で史上ほかに為し得た者のない最高得点“9999点”を2度(4/5・4/12)獲得したことでしょう。 しかも同番組での歴代高得点の16位(9866点)以上を「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が6回到達、通算でも歴代3位に当たる“9週連続1位”という圧倒的な記録を残しました。 ただし同番組の記録によると「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は“年間7位”という意外な成績で、同年の年間1位は小林幸子「おもいで酒」(週間では最高5位だが20位以内に31週間ランク)となっています。
Young man, there's a place you can go. Young man そこには、君の行く場所がある I said, young man, when you're short on your dough. Young man 少しぐらいおカネがなくたって
「Y.M.C.A.」は【Young Men's Christian Association(キリスト教青年会)】の略語であり、キリスト教主義に基づいた教育・スポーツ・福祉・文化などの分野で様々な事業を展開する世界最大規模の非営利団体で、1844年にイギリスで誕生し1880年(明治13年)には日本にも『東京YMCA』が組織されました(現在では全国主要都市にYMCAが置かれている)。
こうして迎えた1979年1月4日からの大阪・厚生年金ホールでの新春コンサートで「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が初披露されると、ファンから予想を上回る反響がありファン・クラブにも問い合わせが殺到、これにはレコード会社も方針を翻し急遽シングルの発売(同年2月21日)を決定せざるを得ませんでした。 ところが既に生産中のレコードを中止させ、新たなレコードを20日でプレスしなければならないという強行スケジュールであったため工場から無理とのクレームが入り、説得のため西城自らが工場を訪問し各所に頭を下げて回り「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」を実際に歌ってみせて工場側の協力を取り付けたそうです。
今まであまり考えたこともありませんでしたが、こうして西城さんの闘病を辿ってみると、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」の歌詞は“西城さんの生き方そのもの”だったように思えます。 オリジナルの「Y.M.C.A.」自体ゲイというマイノリティを勇気づけるものですが、逆境にある人にとって非常に強いメッセージ性があることに気づかされました。 また、誰しもが病気や老化といった苦況に置かれるものであることを考えると、これは全ての人に当てはまるテーマです。
バンド脱退の一因となったのが彼の反原発運動への参与であり、ニューヨーク州セメントン(Cementon)のハドソン川沿いに進められていた原子力発電所建設を止めることでした。 ジョンらの危惧は1979年3月28日にペンシルベニア州スリーマイル島にある原子力発電所で発生した重大な原子力事故(国際原子力事象評価尺度;レベル5)で現実のものとなり、彼をはじめ志を同じくするジャクソン・ブラウンやグラハム・ナッシュ、ボニー・レイットらが中心となってミュージシャンによる反原発活動『MUSE(Musicians United for Safe Energy)』を立ち上げます。
レオン・ラッセルは14歳から街のナイト・クラブで歌い、17歳の頃すでに方々で引っ張りだこになっていたそうで、フィル・スペクターに見込まれ彼のザ・レッキング・クルーのメンバーとして1963年にロネッツの「Be My Baby」、66年にアイク&ティナ・ターナーの「River Deep – Mountain High」などの話題曲でキーボードを演奏したほど早くからその才能を嘱望された人でした。
その後更にキャリアを積んで1970年に発表したのが、1stソロ・アルバム『レオン・ラッセル(Leon Russell)』です。 しかしこの“新人”のデビューのためアルバムに参加した“ゲストはあり得ない豪華なもの”で、ローリング・ストーンズからミック・ジャガー、チャーリー・ワッツ、ビル・ワイマンが、ビートルズからジョージ・ハリスン&リンゴ・スターが、他にもエリック・クラプトンやスティーヴ・ウィンウッド…等々、時代のトップ・スターたちが軒を連ねるように彼をサポートしています。 「A Song for You」はこのアルバムに収録された作品で、シングル・カットはされたもののチャート・インはできなかったようです。
しかし「A Song for You」の楽曲に対するミュージシャンの評価は当初より非常に高いものがあり、翌年には早速ダニー・ハサウェイやアンディ・ウィリアムス(Billboard Hot 100で82位)らによって、オリジナルよりマイルドなテイストでカバーされました。 1972年にはカーペンターズが本曲をコンセプトとしたアルバム『A Song for You』(当初の邦題は『トップ・オブ・ザ・ワールド』)を発表、シングル化はされなかったもののこのアルバムの大ヒットにより同曲の知名度は一気に高まることとなりました。 その後もアレサ・フランクリンやジョー・コッカーら個性派が続々と取り上げており、1993年のレイ・チャールズのカバーはグラミーで“Best Male R&B Vocal Performance”を受賞、2005年のハービー・ハンコック/クリスティーナ・アギレラのバージョンもグラミーにノミネートされています。
レオン・ラッセルというと今回メイン動画のコワモテな風貌やパフォーマンスにあるように、“アクが強過ぎて一般受けしない”アーティストのイメージがあります。 しかし「A Song for You」を多くの歌手がカバーしていることでも分かるとおり、その楽曲は素晴らしいものであることはご理解いただけることでしょう。
「天使のささやき」は、1973年に発表した3rdアルバム『The Three Degrees』の収録曲(PIR移籍後最初)で、この時のメンバーはシーラ・ファーガソン、フェイエット・ピンクニー、ヴァレリー・ホリデイ(2016来日メンバー)という顔ぶれでした。 翌年2月、ギャンブル&ハフはアメリカの音楽番組『ソウル・トレイン』のテーマ「TSOP (The Sound of Philadelphia)」を作曲しソウル・バンドMFSBに演奏させていますが、そのコーラス・パートにスリー・ディグリーズが起用され、これが4月にBillboard Hot 100でNo.1に輝いています。
しかしこの日本での思わぬ大ヒットが欧米でその評価が見直されるきっかけとなり、9月にシングル「When Will I See You Again」がリリース、アメリカではHot 100で2位(1975年の年間75位)/Cash Box誌No.1を記録。 イギリスでは週間No.1に止まらず年間2位というこの年を代表する大ヒットとなり、1978年にはチャールズ皇太子の30歳の誕生日を祝う式典にスリー・ディグリーズが招かれこの曲をパフォーマンスしました。
そのせいかケニー・ギャンブルがピアノで「When Will I See You Again」を彼女らに紹介した時、この曲のリード・ヴォーカルを務めることとなるシーラ・ファーガソンは“こんな誰でも歌える簡単な曲なんて、歌わない!”と、憤慨したそうです。 しかし何百万という大ヒットを遂げ自分たちにとって大切な作品となった後、シーラは“彼の方が正しかった”と自らの過ちを認めています。
Will I have to wait forever? …ずっとずっと待たされる?
このフレーズは最もこの女性のかわいらしさを伝えていると思うので、“そんな表現”にしてみました。
「When Will I See You Again」の特筆すべき一つは“全文疑問文”で構成されていることで、そのため訳し方によっては“いつまで待たされるの?”と相手を問い詰めているようなニュアンスを与えてしまい兼ねません。 でも曲の雰囲気からは、“そういう趣旨”が込められた歌ではないことがすぐに理解できるはずです。 …なので一つひとつは簡単に見えるこの疑問文の羅列が、詰問になってしまわぬよう日本語表現には案外苦心させられました。
Is this my beginning or is this the end? 私にとって、これは始まり? それとも…
…さて、それにしても何で本作品の邦題は「天使のささやき」?? 原題の「When Will I See You Again」をはじめ、Lyricsには[angel]も[whisper]もありません。 『The Three Degrees』のレコード・ライナ-を見てみると彼女らの売り文句には“フィラデルフィアのセクシー・エンジェル”と掲げられており、「When Will I See You Again」冒頭の彼女らの悩ましい【Oooooo, haaa...】がこれを象徴するでしょうか…。
でも、どんなに愛らしかろうとも彼女たちは決して[angel]ではありません! なぜなら、グループの名前である【The Three Degrees】は “Man, woman, and devil, are the three degrees of comparison.” (男-女-悪魔は、比較の三段階変化)
ミニー・リパートンはアメリカ・シカゴ出身の歌手で、“5オクターブ”ともいわれる広い声域を駆使した美しい歌声は、後世マライア・キャリー(過去ログ)やセリーヌ・ディオン(過去ログ)など多くの歌姫たちに影響を及ぼしました。 ミニーは音楽一家に生まれ、両親は早くから彼女の声の才能に気づきシカゴのLincoln CenterやHyde Park High Schoolでオペラを専門的に学ばせています。 こうした恵まれた環境の下、15歳で早くもガール・グループ“ジェムス(The Gems)”の一員としてレコード契約、その後ソロ・デビューも果たし(Andrea Davis名義)、私生活でもプロデューサーのリチャード・ルドルフと結婚、2人の子どもにも恵まれる順調ぶりでした。 しかし当時ミニーが唯一得られなかったのが“歌手としての成功”で、育児の忙しさもあって彼女は20代前半にして引退同然の2年間を過ごしています。
そんなミニーにも、憧れのシンガーがありました。 同じ黒人シンガーとして当時名声を欲しいままにしていた、スティーヴィー・ワンダー(過去ログ)です。 彼女はスティーヴィーと歌うことを夢みていましたが、実は彼も以前からミニーの歌声に注目していて、そうした相思相愛からミニーは彼のバンド“Wonderlove”にバックコーラスとして参加する機会を与えられ、スティーヴィーがグラミー・最優秀アルバム賞を受賞した1974年の作品『Fulfillingness' First Finale』のレコーディングにも貢献しています。
そうした経緯からスティーヴィーがミニーの復帰に一役買ったのが、同年発表したミニーの2ndアルバム『パーフェクト・エンジェル(Perfect Angel)』でした。 このアルバムでスティーヴィーはプロデュースに加え5種類の楽器演奏及び2曲の楽曲提供で支援し、さらにはWonderloveのメンバーだったデニース・ウィリアムスやマイケル・センベロまで応援に駆け付けています。 (※ただし、レコード会社との権利上の問題を避けるためスティーヴィーは“El Toro Negro”や“A Very Special Fan”という名で記されている)
「Lovin' You」はこのアルバムからのシングル・カットで、Billboard Hot 100では1975年4月5日付でNo.1(1週/年間13位)に輝きました。 当初『パーフェクト・エンジェル』には8曲が用意されましたがスティーヴィーはあと1曲必要と思い、ミニーとリチャードに“君たちにとって、一番照れ臭い歌はない?”と尋ねたところ思い当たったのが、娘のマーヤ(現在、マルチ・タレントとして活躍するMaya Rudolph)の子守唄として歌っていた“melody”でした。 この“melody”を手直しして完成したものが「Lovin' You」であり、そのため同曲のアルバムver.やミニーの一部のパフォーマンスでは歌の終わりで“Maya...”と繰り返されています。 あまりにもミニーのイメージが強いせいか意外にカバーは少なく、1992年にシャニースがBillboard R&Bチャートで59位に入ったのが最高で、日本では1991年のジャネット・ケイのバージョンが有名でしょうか…。
Minnie Riperton / Shanice
~Lyrics~
Lovin' you is easy あなたを好きになるのは、たやすいこと cause you're beautiful だって、あなたは本当に美しい人なんだもの
「You Are So Beautiful」(過去ログ)や「What Makes You Beautiful」(過去ログ)のように英語では【beautiful】は頻繁に使われますが、日本語に変換するのにこれほど厄介な言葉はありません。 【美しい】という言葉は価値があり過ぎて重いというか…日本人は軽々しく口にしませんよね? 増してや“男性に対する形容としての【beautiful】”は、相当違和感が…?
Lovin' you I see your soul come shinin' through 愛してる…あなたの心の奥を知るほどに And every time that we oooooh 二人の心がまた一つ、ふれあうたびに I'm more in love with you あなたをもっと好きになってゆく
Stay with me while we grow old 齢をとっても、ずっとそばにいてね And we will live each day in springtime きっと、一日一日を春の陽だまりの中で暮らしてる
1979年5月、アルバム『Minnie』がリリースされ、ミニーは6月15日に『Mike Douglas Show』に新作のプロモーションとして出演していますが、具合が悪いのかここでは患部と思われる右腕はずっと固定したままで歌っています(腋の下にある“腋窩リンパ節”は、乳がんが転移し易い場所)。 彼女には、もう“時間”が残されていませんでした…。
MEMORY LANE - MINNIE RIPERTON Live on Mike Douglas Show
この最後のテレビ出演直後ミニーは寝たきりとなり、7月10日に入院。 11日夜にスティーヴィー・ワンダーが見舞いに訪れ“Minnie Get Well Soon(早く良くなって)”と歌い掛けると、彼女は“私の待っていた最後の人が来てくれた”と応え、翌朝その歌を聴きながら夫リチャードの腕の中で息を引き取りました(享年31)。