ジェフ・ベックはローリング・ストーン誌【The 100 Greatest Guitarists of All Time 第5位】(2011年)、日本ではエリック・クラプトン、ジミー・ペイジと並ぶ【3大ロック・ギタリスト】の一人として愛され続けた英国のギタリストです。 エリックとジミーがそれぞれソロやレッド・ツェッペリンなどで歌曲のヒットを多く創作した“音楽家”という顔があるのに対し、ジェフの真価はその8度のグラミー受賞のうち7回が【インストゥルメンタル・パフォーマンス】であることが示しているように、彼は自身のギターを主役に据えた、“より純粋なギター・プレイヤー”という違いがあります。
最初に紹介するのはジェフが全曲に参加した唯一のアルバム、1966年の『Yardbirds』に収録された「Over Under Sideways Down」(英10位/米13位)です。 印象的なギター・フレーズを考案・プレイしたのがジェフであり、ローリング・ストーン誌【100 Greatest Guitar Songs of All Time 第23位】に位置付けられています。
ジェフは1966年11月にヤードバーズを脱退するとミッキー・モストとプロデュース契約を結び、1967年にソロ・シングル「Hi Ho Silver Lining / Beck's Bolero」を発表し全英シングル・チャートで14位と悪くない成績を残しましたが、彼は後年「Hi Ho Silver Lining 」について“ピンクの便座を一生首からぶら下げているようなもの”と表すほど嫌っていたようです。 この時のことについて彼は“プロデューサーが俺をポップ・シンガーに仕立てようとしたんだ。そして惨めに失敗し、俺のシンガーとしてのキャリアは終わった。今から思えば、終わって良かったけど”とも語っています。
~ ジェフ・ベック・グループ(The Jeff Beck Group) ~
自らが歌唱する方向性の限界を痛感したジェフは、自身の理想を具現化するためのバンド(ジェフ・ベック・グループ/ The Jeff Beck Group)を構想、当時まだ無名だったロッド・スチュワートやロン・ウッド、コージー・パウエルらをメンバーとして見出しました。 ジェフがメジャーとなるための最大の課題は、彼のギターに見合うヴォーカリストがなかなか見つからないことにあり、その点でロッドのワイルドなしわがれ声は相性抜群でした。 (二人の相性についてロッドは、“僕の声と彼のギターは天下一品だ。でもエゴのぶつかり合いで意見が合わなかった。僕らは二人とも(互いを)プロデュースしたくなる…そこが問題なんだ”と回顧)
1stアルバム『トゥルース』(Truth)の冒頭曲「シェイプス・オヴ・シングス(Shapes of Things)」は、元々ヤードバーズ1966年のシングル曲でしたが、オリジナルのサイケデリックからジェフの“ダーティで邪悪に”の発案によってテイストが大きく変貌し、ロックの殿堂【500 Songs That Shaped Rock and Roll】と2005年3月のQ誌【100 Greatest Guitar Tracks Ever! 61位】に位置づけられる名曲となっています。
またロッドらの脱退後1971年に発表した『ラフ・アンド・レディ(Rough and Ready) 』ではメンバーにボブ・テンチ(vo/g)、クライヴ・チャーマン(b)ら黒人プレイヤーを迎え「ガット・ザ・フィーリング(I Got The Feeling)」など、ファンキーなブラック・ミュージックへと転じました。
~ ベック・ボガート & アピス (Beck, Bogert & Appice、BB&A) ~
1972年、『Jeff Beck Group』のツアーでのパフォーマンスに不満を抱いたジェフは“新たなバンド”を構想するようになり、「You Keep Me Hangin' On」で知られる元ヴァニラ・ファッジ(Vanilla Fudge)のティム・ボガート(vo/b)とカーマイン・アピス(dr)、元フリー(Free)ポール・ロジャース(vo)をメンバーに誘い(ポールは誘いを断る)、ベック・ボガート & アピスを始動させます。
一方この頃、ジェフはスティーヴィー・ワンダーの『トーキング・ブック』のレコーディング・セッションに招かれ「Lookin' for Another Pure Love」でギターをプレイしています。 その際、ジェフがスタジオで叩いていたドラムのグルーヴ感をスティーヴィーが気に入り、これを元に作曲したのがあの「迷信(Superstition)」であり、そうした縁により本曲は1972年8月にジェフ・ベック・グループのツアーで演奏され、1973年のアルバム『Beck, Bogert & Appice』にも収録されることになりました。
BB&Aが“お決まり”の道を辿り自然消滅した頃、ジェフの関心は超絶技巧派ギタリスト(ローリング・ストーン誌 The 100 Greatest Guitarists of All Time 第68位)ジョン・マクラフリン率いるマハヴィシュヌ・オーケストラによるジャズとロックなどを融合させたフュージョンへと向かい、同バンド1974年のアルバム『黙示録(Apocalypse)』をプロデュースしたジョージ・マーティンを迎え制作したのが、1975年のインストゥルメンタル・ソロ・アルバム『ブロウ・バイ・ブロウ (Blow by Blow) 』でした。 本作はそれまでの“バンド・アンサンブルの一つとしてのギター”から、明確に“ジェフのギターをバンドの主役”に据えたことで彼のギターを存分に味わえるようになり、インストゥルメンタルとして異例の商業的成功を収めただけでなく、創作的にも自他共に認めるジェフ・ベックの最高傑作と位置付けられています。
本作でジェフの新境地を象徴する楽曲といえば「フリーウェイ・ジャム」(Freeway Jam)で、ポール・マッカートニーのファンはウイングス1979年の「ロケストラのテーマ」(Rockestra Theme)と重なるでしょう。 ポールといえば、本作でカバーされているビートルズ・ナンバーが「She's a Woman」であり、オリジナルがハードでストレートなロックであるのに対し、ジェフ ver.はトーキング・モジュレーターをはじめ“別曲”といってよいほどテイストが異なります。
一方、「Goodbye Pork Pie Hat」はチャールズ・ミンガスが作曲したジャズのスタンダード・ナンバーです。 オリジナルは言うまでもなく名曲ですが、当時ジェフは自身のソロに満足しておらずジョージ・マーティンに"アレンジに良いアイデアがある"と電話をすると"アルバムがリリースされて2週間だよ!"とツッ込まれたほど探求熱心であり、2007年のライブでは更に磨きのかかったプレイを披露しています。
~ “競演”の1980年代 ~
1980年代は旧友との“競演”の時代でした。 1983年9月20日の『A.R.M.Sコンサート』では「いとしのレイラ/Layla」と「天国の階段」でジェフをはじめ3大ギタリストが揃いステージで共演、会場を沸かせました。 翌84年の『ハニードリッパーズ (The Honeydrippers)』では、ジェフとジミー・ペイジ、ロバート・プラントらが集結しアルバムを発表したことをご記憶の方も多いでしょう。 そして1985年は「ピープル・ゲット・レディ」で盟友ロッド・スチュワートと競演、アルバム『フラッシュ(Flash) 』に収録のヤン・ハマー作「Escape」で生涯初めてのグラミーを受賞しました。
ビートルズ・ファンの私にとって印象深かったのが、ジョージ・マーティン1998年のコンピレーション・アルバム『イン・マイ・ライフ』(In My Life)でのジェフの「A Day in the Life」のギター・カバーであり、とりわけグラミー最優秀ロック・インストゥルメンタル・パフォーマンスを受賞した2008年のライヴ・アルバム『ライヴ・ベック3〜ライヴ・アット・ロニー・スコッツ・クラブ(Performing This Week...Live At Ronnie Scott's)』での本曲のプレイは、ビートルズver.でのオーケストラの領域までギター一本で再現するなど、その表現力に驚かされるでしょう。
2010年代以降もジェフは精力的にライブ+ライブ・アルバムを発表し続け(来日も5回)、2020年4月には世界的なコロナ・パンデミックの中、『パイレーツ・オブ・カリビアン』のジョニー・デップと組んでジョン・レノンのカバー曲「Isolation」をメッセージ・ソングとしてリリース、75歳にして新たな挑戦を始めることを表明しました。 2022年7月には二人のコラボレーション・アルバム『18』を発表、ジョニー作によるシングル「This Is a Song for Miss Hedy Lamarr」とそのMVも公開、同コンサート・ツアーも2022年11月12日まで連日行われていました…。
コメントを投稿